自己と自我
「自己と自我」
インド哲学において、自己(アートマン)と自我(カーヤ•チッタ)の混同は、あらゆる煩悩のもとになるとされています。
「自己」とは、自己反省的、自己回帰的にその存在が確立されているので、認識主体であり、因果応報、自業自得の担い手以外にはなにも内包はしていません。
それに、たいして「自我(心身)」は、
認識される対象であり、かつ、「自己」がそれを介して世界を認識しているので、私たちは自我を自己だと錯覚をしてしまうのです。自己は、おのずから、自律的に、無媒介にその存在が確立していますから、それを生じめる原因をもたないし、それを滅ぼす原因をももちません。
だから、自己は不生不滅、常住不変であるとされています。それに対して、自我である「心身」は、生じては滅するものであり、「無常」です。
「無常」な自我を「常住」な自己と錯覚するから、人間を苦しみの輪廻的な生存に縛り付けるのです。わたしたちが、「自己」と「自我」を混同する最大の要因は、一人称です。
1人称は、ときに心身をさし、ときに自己をさすといった曖昧な使われ方だからです。
ウパニシャッドの哲人、ヤージュニャヴァルキヤは、「自己」の本質を本格的に探求した人です。
彼はこのようにいいます。
「自己は、見られることがなく見るものであり、
聞かれることなく、聞くものであり、
思考されることなく、思考するものであり、
知られることなく、知るものである。
これより、別に見るものはなく、
これより別に聞くものはなく、
これより別に思考するものはなく、
これより別に知るものはない。
これが汝の自己であり、
内制者であり、
不死なるものである。
これより別のものは
苦しみに陥っている。」
ブリハッドアーラニヤカ ウパニシャッド 3、7、23
彼は、自己の本質は、「認識主体」であるがゆえに、けっして「認識対象」にはなりえないと看破したのです。
自己は認識対象である世界に属すること無く、世界外存在だということです。従って、自己は知られ得ないものですから、私たちの、
「世界のうちのこういうものが自己である」
と言語表現することは不可能なのです。