Photo diary from sajima

写真家 内田亜里のブログです

タゴールについて考えた午前中


タゴール

「わたしが十八歳の時、宗教体験の突然の春風がはじめて私の生活に訪れた。ある日、朝早く太陽が樹々の向こうから光線を放っているのを眺めながら立っていると、不意に、霧が私の視界から一瞬にしてはれあがり、朝の光が歓びの輝きを啓示しているかのように感じられた。日常性の目に見えない垂れ幕が、すべての物や人から取り除かれ、物事や人間の究極的な意味が、私の心の中で強められた。それこそが、【美の明確化】であった。この経験で忘れられないのは、それのもつ人間的なメッセージであり、私の意識が超個人的な人間世界へと突然ひろがったことである。」



タゴールは、1861年インドのコルカタでうまれます。この時期は、インドではちょうどセポイの反乱が鎮圧されて、イギリス統治下に完全にはいるという時期にあたります。
彼の祖父は資産家で銀行をもつ傍ら様々な貿易をするお金持ちで、父親もそのあとをつぎますが宗教的なことがらにとても興味のあり、タゴールにとってはもっとも敬愛する人物でありました。
兄弟も多く、彼らはのちに「ベンガルルネッサンス」と言われるベンガルの文化運動の中心的な役割を果たしたような人たちでもあります。
タゴールは、小さい頃から学校になじめず、小学校も点々とし、イギリス留学時代も学位をとることなく両親をがっかりさますが、そのかわり西洋音楽、西洋文学をみっちりとみにつけます。また、小さい頃から言葉のリズムにはずばぬけたセンスをもち、15歳のころには早くもかれの詩が公の場で読まれていました。そんなかれが、イギリス留学から帰国し、メランコリックな日々をすごしていた矢先、上記のようにタゴールがのちにはなしている宗教体験、または精神体験をするのです。これまでなんとなくただ見ていたもの、そういうものすべてに生命的なヴィジョンを見るわけです。美の明確化です。この体験は彼の創作の出発点であり、「第2の誕生日」ともよばれています。また、敬愛する父親につれていってもらったヒマラヤ山脈の大自然もかれに自然をみる心をやしない、おおきな影響をおよぼしたとされています。
またこの時期のインドはイギリス統治下でもあり、自然とインド独立運動の先頭をたって戦うという時期もありました。

40歳から50歳にかけて、彼はつぎつぎに親族を亡くしました。この人間的な苦悩が、彼を大きく成長させます。この苦しみから乗り越えて神を信ずることへの飛躍というのが、この十年間のタゴールには大きな宗教的成果でありました。ヒンドゥー教徒である彼に、考え方の一つの基盤になっているものがあるわけです。それはヒンドゥー教のウパニシャッド思想の一番中核的なものである「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想でした。大宇宙と、その大宇宙の中の人間の心に宿る魂とが一つである、という考え方です。この梵我一如の思想が、人間なるものが有限なるものに宿っているという考え方。これがタゴールの思想の一番大切な中核的な思想になるかと思います。一方タゴールは、神というものを抽象的な、或いは論理的な、そういう神を求めはしませんでした。彼はあくまでも神を自分の心の中で求めて、そして自分と対話できる神というものを求めたわけです。それではその神はどういう神かといいますと、人間というものでなければいけない、と。彼は神を人間の姿において見たというのではないけれども、人間である以上、大きな神の姿を自分の中に迎えようという気持、その気持を突き付けていくと、神にも一つの人格があるんだ、という考え方を持ったわけです。神の人格の面というのがタゴールの場合に神を非常に親しく身近に感ずる動機になったのです。



「いまあたりを見まわす時、高慢な文明の崩れゆく瓦礫(がれき)が廃物の山となって方々に散在しているのを私は見る。それでもなお、私は、今日の挫折を決定的なものとみなして、「人間」への信仰を失うという痛ましい罪を犯しはしないだろう。私はむしろ、大動乱が過ぎ去った後の、歴史の新しい章の始まりを、奉仕と犠牲の精神で浄められた晴朗な大気を待ち望みたい。おそらくそのような夜明けの光は、この地平から、太陽の昇る東洋からさし昇るだろう。いつの日か、不滅なる人間が、失われた人類の遺産を取り戻すために、あらゆる障害を乗り超えて、かつての征服の道を引き返す日が来るだろう。今日、我々は権力の無礼な大きな危機に瀕しているのをこの目で見ている。古(いにしえ)の賢者が宣言したことの真理が完全に立証される日がやがてくるだろう―」
 
「不正によって人は栄え、望むものを得、敵を征服する。されど本質においては滅びているのだ。」


上記のことばは、かれの死の3ヶ月まえにかかれたメッセージです。
このとき、世界では第二次世界大戦でありました。人類愛を世界中に唱えていた彼は、またおおいなる悲劇をまのあたりにすることになります。西洋文化に早くから馴染んでいたかれは、西洋文化にある明るい未来を確信していましたが、その西洋文化が生んだのは科学的兵器と、歪んだナショナリズムだったのです。東洋からくるといっているのは、科学万能の世界ではなく人間が心を大切にする、それは東洋からくるだろう、ということなのです。そして昔ブッダが教えた慈悲の心、そういうものがもう一度新しい自分たちの生活原理として生まれてくる、ということを彼は期待して、「私は今でも人間に絶望することはないんだ」といったのが最後のメッセージになります。

この上記のことばをわすれずに、わたしは日本人ですからまずは日本のことを、上記のことばに照らし合わせて、ふかく考えていかねばなりません。


ということを頭にいれて、もう一度、ギタンジャリ。