Photo diary from sajima

写真家 内田亜里のブログです

インドでの日々の泡 その2 エスタード・ダ・インディア

このインドでの日々の泡は何章かにつづきます。

2012年から2013年まで作品制作・研究のためインドのゴアに住んでいたころの記憶をたどる、わたしの忘備録です。

今回はすこし歴史の話。


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インドでの日々の泡 その2 エスタード・ダ・インディア


ゴアの道行く人々は、生粋のインド人とはどこか違う不思議な印象。それはたとえばかれらの服装であったり(ゴアではほとんどの女性がサリーをきない、スカートに半袖、または誂えたワンピース)、それはたとえばかれらの顔つきであったり(かつてポルトガル領であったため、混血が多いとされる)または、リスボンを真似たとされるパナジの建築群であったり、キリスト教会の多さだとか。

ポルトガルの影響が随所にのこる街、それがゴアの一面なのです。

ゴアに住んでいたのですから、ポルトガル領としてのインド・ゴアを知ることはとても大切なことでした。


エスタード・ダ・インディア ーポルトガル領インドについてー


そもそもなぜ、ポルトガルはゴアを目指したのか?


それは、「胡椒(香辛料)」から始まります。


11世紀初頭、胡椒はヨーロッパでは銀と同等の価値をもっていました。なぜ、そのような高値で扱われたかというと、ヨーロッパの風土ではこのようなスパイスは育ちませんから、原産地であるインドや東南アジアから様々な経由地を通ってヨーロッパへくるので関税がかかり、最終的にものすごい高値で売りさばかれるからです。しかし、ヨーロッパの人々は香辛料を求めました。それにはいくつかの説があります。その1つは、ヨーロッパでは冬になると放牧ができないため家畜をころして肉を塩漬けにして保存食にしていました。しかし、これが最高にクサい。そのクサみをとる魔法のような粉、それが「胡椒(香辛料)」でした。
また、胡椒をはじめとするクロウヴなどの香辛料は、ヨーロッパでは「医薬品」として考えられていたという説もあります。この頃から、香辛料の医学的効能は詳しく書籍などにしるされ、上流階級の間でかなりの需要があったようです。

となると、俄然、直接交渉をして、安く仕入れ、高く売りさばきたい、という欲望にとりつかれます。
もし胡椒の産地であるインドと直接交渉できたら、けっこうな富をえられるはずだと。

で、


「おまえインドみつけて、交渉してこいよ!」


と任命されたのが、かの有名なポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマです。


ガマを司令官とする船は、けっこう難ありな旅をつづけ、アフリカの喜望峰から南インドのカレクト王国(現在のカリカット)に到達します。
ガマは直接交渉をお願いしたいのですから、ここの王様にお土産なんかをわたすのですが、お土産をチェックしたカレクト王国の役人に、こんなものは港の商人でももってこないよと一笑されてしまいます。
ここでわかるとおり、いかにかつてのインドの王国がヨーロッパより非常に裕福で、この海域において盛んに様々な物品の取引がされていたということがわかります。その後、いくつかのごたごたがあり、ガマは結構卑怯なやりくちで、たくさんの香辛料を得てポルトガルへと帰還し、莫大な富を得ます。ガマは再度カリカト王国へ向かいますが、このときは前よりもかなり暴力的なやりかたで罪のない女子供を巻き込みながら、香辛料を得ようとします。カレクト王国とガマの関係性はその後悪化しましたが、カレクト王国の敵であるコーチンポルトガルと手を結ぶことでカレクト王国の属領となることをさけようとしました。こうしてポルトガルコーチンを拠点とし、優秀な司令官を送り込みました。次第にいくつかの港町はポルトガルの支配下におかれていきました。そして、1510年、ポルトガル提督アフォンソ・デ・アルブケルケはビジャプール藩国を打ち負かし、ゴアを占領したのです。占領されたゴアの町並みはリスボンに模して華麗に再建されていきました。そしてまた、キリスト教布教の基地として動き出したのです。この布教にともない、かつてヒンドゥー教寺院であった場所にどんどんとキリスト教教会が立てられていきます。


その3へ続く

参考まで
(今から400年以上前に、奴隷としてゴアにやってきた日本人たちのこと)
http://d.hatena.ne.jp/aliuchida/20121122/p1