Photo diary from sajima

写真家 内田亜里のブログです

自己と自我

「自己と自我」



インド哲学において、自己(アートマン)と自我(カーヤ•チッタ)の混同は、あらゆる煩悩のもとになるとされています。


「自己」とは、自己反省的、自己回帰的にその存在が確立されているので、認識主体であり、因果応報、自業自得の担い手以外にはなにも内包はしていません。

それに、たいして「自我(心身)」は、
認識される対象であり、かつ、「自己」がそれを介して世界を認識しているので、私たちは自我を自己だと錯覚をしてしまうのです。

自己は、おのずから、自律的に、無媒介にその存在が確立していますから、それを生じめる原因をもたないし、それを滅ぼす原因をももちません。
だから、自己は不生不滅、常住不変であるとされています。

それに対して、自我である「心身」は、生じては滅するものであり、「無常」です。
「無常」な自我を「常住」な自己と錯覚するから、人間を苦しみの輪廻的な生存に縛り付けるのです。

わたしたちが、「自己」と「自我」を混同する最大の要因は、一人称です。
1人称は、ときに心身をさし、ときに自己をさすといった曖昧な使われ方だからです。




ウパニシャッドの哲人、ヤージュニャヴァルキヤは、「自己」の本質を本格的に探求した人です。

彼はこのようにいいます。




「自己は、見られることがなく見るものであり、

聞かれることなく、聞くものであり、

思考されることなく、思考するものであり、

知られることなく、知るものである。

これより、別に見るものはなく、

これより別に聞くものはなく、

これより別に思考するものはなく、

これより別に知るものはない。


これが汝の自己であり、

内制者であり、

不死なるものである。


これより別のものは

苦しみに陥っている。」

ブリハッドアーラニヤカ ウパニシャッド 3、7、23




彼は、自己の本質は、「認識主体」であるがゆえに、けっして「認識対象」にはなりえないと看破したのです。
自己は認識対象である世界に属すること無く、世界外存在だということです。

従って、自己は知られ得ないものですから、私たちの、

「世界のうちのこういうものが自己である」

と言語表現することは不可能なのです。