Ali uchida

写真家 内田亜里のブログです

メモ

 羞恥を感じる相手に対して、さらに尊敬をも示すというのであれば、観る対象は彼自身なのであり、羞恥している彼が観られているというとになる。この場合、彼は観るものではなく観られるものである。世界の特定の像に合うのではなく観るやり方を提供している感じ、これがアイデスタイである。この像は不可視であるのと同時に可視的でもあり、規範でありながら自然でもあり、精神の目にも、肉体の目にも、同時に観ることができるからである。この場合可視的なものと見えるもの、道徳的なものと自然的なもの、精神的なものと肉体的なもののあいだには何の葛藤も存在しない。しかしこういう世界観のなかには、解決しえなかった何か別のもの、つまり世界の全体像があった。現実の世界にはいくつもの位相があり、種々さまざまの像を呈している。それらの像のどれか内部における不一致を観たということがそれに耐えているものにとっては、「アイドース」なのだ。ある特定の立場の倫理が「アイドース」の本質を説明するわけではなく、世界のいかなる立場、いかなる領域にもあり得る、明瞭な不一致がそれなのだ。それらの領域が互いに争うこともありうるように「アイドース」と「アイドース」が相拮抗することもないではない。

 (カール•ケレーニイ 「神話と古代宗教」)